Chapter-1


『柳通り』の一角。
 暗い夜道をボウッと照らす街灯の下で、その客はタクシーを止めた。

 たった一人で、音もなく乗り込んできた客……俯いたその顔は陰になり、表情が見えない。まだ若い娘だろうと予測はつくが、そろそろ深夜と呼んでも差し支えがなさそうなこの時間帯、そんなに若い娘がたった一人でうろついているとは思えなかった。
 駅前の繁華街ならまだしも、この辺りには夜中に空いている店はおろか民家も無いのだから。

「蓮池病院まで」

 目的地を告げたその声は、ひどくか細く、注意していないと聞き漏らしそうだ。
 長い黒髪は腰まで伸びて、古風なワンピース共々、現代離れした印象を抱かせる。

(まさか……幽霊じゃないだろうな)
 タクシー運転手の鳥羽修一は、心の中でそう呟いた。

 この業界に入って三年――先輩運転手たちの噂でしか聞いたことのない〝柳通りの幽霊〟が、ついに目の前に現れたのかも知れない。
 もしそうなら今すぐこの客を夜道に放り出して逃げ去るところだが、「お客様」が生身の人間だった場合、会社全体の信頼性に被害が出る。 そう思うと、下手なことはできなかった。

「はい。蓮池病院ですね」
 鳥羽は客に向かって頷いて、ハンドルを握りアクセルを踏み込んだ。



 柳通りの幽霊の話が囁かれ始めたのは、鳥羽が入社してすぐの頃だろうか。
 夜の柳通りには気をつけろよ――その謎の忠告から始まった先輩の怪談話。
 長い黒髪の女が一人、夜中の柳通りの街灯の下に立っている。
 告げる行き先は、必ず蓮池病院。
 目的地に着き、運転手が振り返ると……

 よくある定番の怪談話だった。
 実際に幽霊を乗せたと証言する運転手も少なからず存在するし、他の運転手も可能な限り夜の柳通りを避ける。
 鳥羽だって、そんな話を聞いた以上は現場を通りたくないというのが本音だった……が、その日はたまたま事情が重なってそこを通るしかなかったのだから仕方がない。

 案の定、というか。よく出来た偶然、というか。

(………)
 鳥羽はバックミラー越しに、チラと後部座席に目をやってみた。

 客の女は相変わらず俯いたままで微動だにしない。
 目的地を告げたっきり押し黙ったままだし、気配というものをまるで感じないように思う。

(怪談話の続きはどうだったっけ)と、鳥羽は考えた。

 ……運転手が振り返ると、客の女は消えている。
 それでおしまい。

 確か、そうだったはずだ。
 証拠が残らないから、運転手が幻覚を見たということも在り得る。
 夜の柳通りを避けていた身とはいえ、現に鳥羽はずっとそう思っていた。
 ……今までは。

 対向車のライトも見えず、街灯がぽつりぽつりと間隔をあけている道は、薄暗いという表現を通り越して黒い色でしかない。
 自分の車のライトが唯一の光源のようなもので、一見変わらない景色が、確実に進んでいるはずの距離をひどく曖昧なものにしていた。

 車内の空気が重く感じられる。
 蓮池病院までは十分くらいで着けるはずだが、もう一時間も経ったような錯覚に陥りそうだ。

 もしかしたら、同じ道をぐるぐる走っているのかも知れない。
 いつまで経っても柳通りから抜け出せず、幽霊を乗せたまま、延々とそこを廻るのだ……



 キッと音がして、タクシーが止まった。
 考え事の渦から現実世界に戻ってきた鳥羽は、そこが蓮池病院の前で、どうやら自分がブレーキを踏んで車を止めたらしいということがわかった。

「着きましたよ」

 ほっとしてそう言ったのもつかの間、鳥羽の体温がすっと下がる。
 ……怪談話のクライマックスは、ここからじゃないか!

 ――運転手が振り返ると、客の女は消えている……

 その一言を思い出した瞬間、鳥羽は頭部を後ろに向けようとした体勢のままで固まってしまった。
 振り向くべきか、振り向かざるべきか。

「お客さん……? 着きましたよ?」

 鳥羽の呼びかけにも、客は黙ったままだ。
 仕方なく、ぎこちない動作で首を後ろに振り向ける。
 時間が長くも短くも感じられるなか、鳥羽の目は後部座席を捉えた。

 誰も乗っていない。

さっきまで人が座っていたような凹みを僅かに座席に残し、客の女は消えていた。

「でっ……」
 出た!――正確には「出た」のではなく「消えた」のだが――世の常でそう叫びだしそうになった口からは、それ以上の言葉が出て来ない。
 結果、あんぐりと口を開けるという非常にかっこ悪い表情になったが、気にしてはいられなかった。

 幽霊……? それとも、幻覚だったのか……?

 叫びだしたい衝動に駆られるが、恐怖に凍りついた体ではそれすらままならない。
 そんな状態でどうにか搾り出した声は、自分が出した声にもかかわらず、鳥羽は場違いだと思わずにはいられなかった。

「消える前に乗車料金を払えよな!」

 ひどく現実的なそのセリフは、恐怖を追い出そうとしたためだろうか。怒ってみせることで、平常心に戻ろうとしたのかも知れない。
 お化け屋敷に入った子供が強がって、出てくるお化けに難癖をつけるように。

 無理やり笑い話に作り変えようとした鳥羽の無意識の努力は、しかし、反対に作用してしまった。
 それも、最もタチの悪い方向に。

「ごめんなさい…… お金、ないの……」

 耳元で突如聞こえた声に心臓が跳ね上がる。
 ぞわりとした寒気を背中に感じつつ、鳥羽の頭の中は徐々に真っ白な色に侵食されていった。
 真横。
 助手席から身を乗り出すようにして、ケタケタ笑う女の顔が鳥羽の間近にあった。

 さっきまでのか細い声ではなく、いやにハッキリした声が耳を打つ。

「ユウレイに向かって怒鳴るなんて、
 運転手さん、いい度胸してるわねぇ!」

 ケタケタケタと、何がそんなに楽しいのか女は笑う。
 すぐ隣にいながら息づかいも体温も感じられない女を横に、鳥羽の意識は今度こそ完璧に、真っ白に塗りつぶされた……



「どうした、鳥羽? 顔色が悪いぞ」
 帰りがけ、すれ違う先輩が鳥羽の顔を覗き込む。
 傍から見てどんな顔色なのかは自分ではわからないが、自分の体温がいやに低いことだけはよくわかった。

「幽霊にでも遭ったか?」

 ハハハッと笑いながらの先輩の言葉は、普段ならば普通に受け流すところだが、アレを実際に見た鳥羽には最悪に悪質な冗談にしか聞こえない。
 かといって半信半疑でもある今、素直にはいそうですと頷けるものでもなかった。
 ……できれば信じたくないということもあるが。

「何でもないです。お疲れ様でした」
 力の入らない声で頑なにそう告げてから、鳥羽はふらふらとした足取りで会社を後にした。



 アレを見てから、いったん真っ白になった意識。
 考えることを一時的に放棄した頭が再び動き出した時には、鳥羽はハンドルを握り、客を運び、降ろした先でまた別の客を乗せ――という通常通りの仕事を、機械的な動作で繰り返していた。

 あの後のことは、まったく記憶にない。
 アレを見たという自分の記憶も怪しいもので、よもや仕事中に居眠り運転をしていたわけではあるまいが、全て夢の中の出来事だった気もしてくる。

 夢なのか幻なのか定かではない。
 アレが夢だとしたら、まさに悪夢としか言いようがなかった。
 目覚めた今でも、正直言って寒気が抜け切らない程である。

(先輩があんな話をするから、あんな夢を見るんだ)

 自分に怪談話を聞かせた張本人を恨みつつ、鳥羽は徒歩で帰路を急いだ。
 こんな日は、早く家に帰って寝てしまうに限る。

 鳥羽の家は、会社のすぐ近く、徒歩で十五分ほどの所にあった。
 家と呼ぶにはいささかお粗末な古いアパートだが、一人暮らしをする鳥羽にとって丁度良い狭さである。

 一歩進むごとにカツンカツンと派手な音の鳴る鉄製の外階段を上がり、二階へ。他の住人はすでに寝静まっているのか、静かな夜に自分の足音だけが大きく響いた。

 鞄から鍵を取り出し、ドアノブの下の鍵穴に差し込む。
 カチャっと鍵が回り、留守を堅固に守った扉が、部屋の主を前にその守りを崩した。

 中に入り扉を閉めるとそこは真っ暗で、鳥羽は手探りで電灯のスイッチに手を伸ばした。
 パッと部屋が明るくなり、掃除の行き届いていない室内があらわになる。

「汚い部屋ねぇ」

 ちゃぶ台の上に腰掛け、呆れたように部屋の中を見回す女――妙に背景が透けて見えるその姿を視認するなり、なんてこった、と鳥羽は低く呻いた。

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