Chapter-2


 ……なんだか、とてつもなく嫌な夢を見た気がする。

 頭から布団を被った状態で目を覚まし、得体の知れない後味の悪さに、鳥羽は目を閉じたまま顔をしかめた。

 寝返りを打とうとして、気付く。
 身体が重い。
 運動神経が言うことをきかず、指一本自由にならない。

(金縛り…?)

 意識に関係なく全身を支配する恐怖。
 早く目覚めなければ。
 目覚めれば、この恐怖は過ぎ去る。
 早く目を開けろ。
 自分はまだ夢を見ているのだ。
 早く起きろ。

「……っ……」
 ただ息が漏れるだけの声を発し、鳥羽は必死で、重い瞼を押し開けた。

 ――アハハハハハハ キャハハハハハハ

 顔にかかる冷たい髪の毛。鳥羽に覆いかぶさる青白い女の顔が、鳥羽の顔を見下ろして笑っていた。

 俺は仕事だらけの毎日で疲れているんだ。僅かな安息時間の睡眠まで邪魔されてたまるか!

 もはや恐怖に麻痺してしまった脳内には怒りの感情しか浮かんでこず、文句を言うためだけに気力をかき集める。
 ようやく自由を取り戻した口は、開口一番、
 寝起きのしわがれ声で「どけろ!」と言った。

 その一言で呪縛が解け、一瞬で全ての運動機能が回復する。
 無理に声を出して咳き込みながら、鳥羽はよろよろと身を起こした。

 室内は薄暗いが、カーテンの隙間から強烈な光が差し込んでいる。
 今は何時だろうと時計を手に取ると、針はすでに十時を告げていた。

 帰宅したのが午前二時。
 そこから明け方までずっと幽霊に語りかけられて眠れず、ようやく寝たと思ったら今度は金縛り――今日は昼からの出社だから良いものの、通常勤務の日なら確実に遅刻だ。

 ため息をついて立ち上がり、カーテンを開ける。
 どっと光の洪水を浴びたところで、背中に冷たい気配が寄り添った。

「おはよう、運転手さん」

 腰までの長い髪にワンピース……
 朝になったら消えるかと期待していたのだが、見事に裏切られたらしい。

(……いい加減にしてくれ!)

 胸中でそう叫び、ひやっとした空気から遠ざかるべく、部屋と一緒くたになった台所へと向かう。
 顔を洗いながら、不快感も一緒に流れてくれないかと願ったが、いくら洗っても背中にまとわりつく冷気(あるいは霊気)は消えてはくれなかった。

 幽霊が音もなく近寄ってきて、勝手に台所を覗き込む。

「そんなところで洗わないで、ちゃんと洗面所に行きなさいよぉ」
「………」

 無視して水を止め、顔をタオルで拭きながら冷蔵庫を開ける。

「ロクな物入ってないじゃないの」
「………」

 牛乳と食パンを取り出し、冷蔵庫の扉を閉めた。間に挟まれそうになった幽霊が慌てて飛びのいた。

 食パンはオーブントースターに放り込み、グラスに牛乳を注いで一気に飲み干す。
 二杯目の牛乳とトーストになったパンをちゃぶ台に運び、万年床を座布団代わりに座ると、それが鳥羽の朝食の準備の完成だった。

「朝ごはんそれだけ? 体悪くするわよー」

 幽霊が勝手に向かいに座る。
 無視して、鳥羽はトーストを齧(かじ)った。

 幽霊はしゃべり続ける。

「一人暮らし? 奥さんとかいないの?」
「………」
「ちゃんと掃除してるの? 布団干したら?」
「………」
「今日もいい天気ィ。ねえ、そう思わない?」
「………」

 幽霊が冷気を振りまきながらあれこれと話しかけてきて、鳥羽はその全てに無言を通した。

 存在しないモノに、返事を返す必要はない。
 無意識を続ければそのうち諦めて消えてくれるだろうと、鳥羽はそう思っていた。
 それまでは持久戦だ。



「ここまででいいです! 降ろしてください!」
 落ち着きなく車内を見回しながら、客がそう言った。
 料金メーターの示す金額を払い、客は飛び出すようにして鳥羽のタクシーを後にする。

「……どうもありがとうございました」
 鳥羽は足早に遠ざかる客の背中に、届かないだろうが一応マニュアルどおりの言葉を掛けた。

 ……これで何人目だろうか。

 鳥羽のタクシーに乗り込んだ客はことごとく、何か異常なものの気配を察知して逃げるように去っていく。
 目的地に着く前にタクシーを止めて出て行く客も大勢……そして、彼らの大半は降り際、青い顔をして車内をきょろきょろと見回すのであった。



 数日が経過した。

 一向に好転しない状況に鳥羽が重いため息をついていると、二人の若い女性がタクシーに乗り込んできた。
 客のうちの一人が鳥羽に訊ねる。

「蓮池病院まで、いいですか」

「えっ?」
 その目的地に、どきんと心臓が跳ねた。
 ……普通に聞いたのならなんでもない目的地じゃないかと思い直し、鳥羽は驚き顔を隠して職業スマイルを浮かべる。

「はい。蓮池病院ですね」
 今は仕事に専念しようと、鳥羽は思った。バックミラー越しに客たちを見る――空調を入れているわけでもないのにひんやりする車内で、三人の娘たちが仲良く後部座席に座っていた。

 目的地までの道すがら、何とはなしに客たちの会話に耳を傾けてみる。
 ……どうやら、彼女たちは蓮池病院に入院している友達を見舞いに行くらしい。

 夜の蓮池病院行きとは違って、実に早く、簡単に目的地に着いた。

 鳥羽の「着きましたよ」の声におしゃべりを止め、娘たちが金を払ってタクシーを降りる。
 病院に入っていく二人の後姿を見ながら、鳥羽はふと、同年代かな、と感想を抱いた。

 車内に残った娘に視線を移す。
 後部座席の片隅で、一人ちょこんと座る娘。
 さっき客に紛れていた時は、仲良し三人組が座っているように見えた。
 ……まるで座敷わらしだな。

「一緒に降りれば良かったのに」

 無言を通すと決めていたにもかかわらず、思わず口をついて言葉が出てきた。
 しまったと思ったが、出た言葉を引っ込めるわけにもいかない。
 どうせ、無言を通したところで消えるという保障はないのだ。

 こうなったら腹をくくる覚悟で、鳥羽は幽霊に面と向き合った。

「ここに来たかったから、タクシー止めたんだろ。
 目的地に着いたんだから降りてもらえませんかね? お客さん」

「だーめ」と、幽霊は即答する。
 そして、にっこりと冷気を漂わせながら笑った。

「おしゃべりしてくれる気になったのね。嬉しいわ」

前のページへ / 次のページへ