Chapter-5


 また数日経った、ある日のこと。

「おおい、鳥羽」
 一日の仕事を終えた鳥羽が帰ろうとした時、そう声を掛ける者が居た。
 振り返った鳥羽の目に映ったのは、鳥羽に例の怪談話をした先輩だ。

「何ですか?」
「お前、三年前の柳通りについて調べてるんだって?」

 先輩の言葉に、鳥羽は頷いた。
 〝柳通りの幽霊〟の話が噂になったのは、三年前。その辺りで何か事件が無かったのかを、鳥羽は調べているのだった。
 勿論、幽子の過去を捜す手がかりとして、だ。

 鳥羽の答えに、先輩は意を決したように切り出した。

「お前さ、〝柳通りの幽霊〟のこと調べてるんだろ」

 別に隠すつもりは無かったが、いきなり核心に触れられた鳥羽は驚いた。
 一拍遅れて、当然か、とも思う。
 三年前、柳通りとくれば、タクシーの運転手たちが思い浮かべるのは〝柳通りの幽霊〟だ。

 図星か、と先輩が言う。

「最近、出なくなったからな。成仏したんだろうって言って、皆は喜んでるけど……」
 先輩は、鳥羽を――
 正確には、鳥羽の背後を――睨んだ。

「……おれはどうしても、ヤツが成仏したとは思えない。
 お前に憑いてるんじゃないのか?」
「何を」
「お前、ここんとこずっと顔色悪いし、ふらふらしてるじゃないか。前の夜中の勤務から、様子が変だ」

 そこでいったん言葉を切り、
 迷うそぶりをみせてから、先輩は続けた。
「……憑いてるんだろ?」

「幽霊なんて本気で信じてるんですか、先輩」

 背中に覆いかぶさる冷気を確かに感じながら、鳥羽は笑ってみせた。
「まさか、俺の背中に女の幽霊が負ぶさってるのが見えるとか、そう言うんじゃないでしょうね?」

「ああ。おれには、何も見えないけどな――」
 低い先輩の声は、少々ピントがずれているものの、真っ直ぐ、幽子へと向けられていた。
「――嫌な気配がそこにくっ憑いてる気がする」

 幽子のことを悪霊か何かのように言う先輩に、鳥羽はムッときた。

「冗談はよしてください」
「冗談じゃねえよ」

 どうやら本気で心配しているらしい先輩は、馬鹿らしいという態度で踵を返そうとした鳥羽の腕をつかむ。

「寺とか神社とかに行って、お祓いしてもらえ。いいな」
「嫌ですよ、そんな迷信深い真似するの」
「いいから、行け! 牡丹灯籠になっちまうぞ!」

「……わかりました!」

 鳥羽は、先輩の手を払いのけた。
 先輩はそれ以上追って来ようとはせず、そんな鳥羽をじっと見ている。

 歩きながら、鳥羽は冗談じゃないと思った。
 確かに先輩の言うとおり最近ふらふらしているが、それは暇があれば柳通りへと足を運んでいるからで、幽子に憑かれているせいではない。

「いいの?」  鳥羽にぴったりと寄り添いながら、幽子が訊いた。

「俺が幽子の心残りを見つけてやるって、自分で決めたんだ」

 鳥羽のその答えに、幽子は「ありがとう」と言って微笑んだ。
 くすくすという笑いは幽子の体を更に冷たく凍らせて、鳥羽の体温を少し削った。




 身体が重い。

 のしかかるというより押さえつけられているような圧力が、鳥羽の神経を鈍らせていた。
 何とか瞼を押し上げる――幽子が笑っていた。愉しそうに、赤い口を歪めて嗤っていた。
 その手が、鳥羽の首へとかかる。

(幽子……!)

 腕が持ち上がらない。
 身体中の気力を失った鳥羽には、思考以外、自由になるものが何一つなかった。
 その思考さえも、今はひどく曖昧だ。

 幽子が悪霊になってしまう。
 目的を持たず、長く現世に居続けた幽子は、歪んだ願いを持つ霊へと変貌してしまう。

(駄目だ、幽子!)
 鳥羽の制止は声にはならなかったが、
 僅かに回復した気力が幽子の冷たい手を跳ね除けた。

 上体を起こした鳥羽を見て、幽子がにっこりと嗤う。

 ――鳥羽さんと、ずぅっと一緒。一緒にいるのよ。
 アハハハハ キャハハハハ――

 ケタケタと嗤う幽子の冷たい体が、鳥羽に絡みつく。
 それをずるずると引きずったまま、鳥羽は戸口まで這い進んだ。
 ……見つけなければ。幽子が完全に悪霊になってしまう前に、幽子の過去を見つけて成仏させてあげなければ。

 ――過去なんていらないわ。鳥羽さんとずぅっと一緒。それでいいじゃない。ね。

(駄目だ、幽子。それじゃ幽子の存在が消えちまう。ただの悪霊になっちまうんだぞ)

 ――かまわないわ。ずうっとずうっと、彷徨うの。鳥羽さんと一緒に。ね。アハハハハハ

 冷気が鳥羽を締め付ける。
 戸口の鍵を開けるのが精一杯で、鳥羽の手はドアノブを掴むことなくずるりと滑った。
 耳元で幽子が囁きかける。

 ――一緒。ずうっと一緒よ。あたしの心残りなんて、もういいじゃないの。アハハハハハハ

 冷えて凍っていく意識の中で、鳥羽は考えていた。
 心残りは叶えるものであって、捨てるものではない。

 捨ててしまえば、未練によってこの世にあり続ける幽霊はその存在が歪んでしまう……心残りを捨てちゃ駄目だ、幽子。幽子の心残りを探さなければ……



「おい、鳥羽! いるのか!?」

 ドンドンッと扉を叩く音で、目が覚めた。
 鍵が開いていることに気付いたらしく、思い切り扉が開かれる。

「鳥羽!」
 鳥羽を引っ張り起こしたのは、先輩だった。

 ――邪魔しないでよ。鳥羽さんはあたしのものなんだから!

 見えたわけではないのだろうが、自分を追い出そうとする冷気を感じた先輩は、キッと幽子を睨み付けた。

「大事な後輩を連れてかせやしねぇからな、生霊!」

「いき……りょう……?」
 青い顔で問い返す鳥羽に、先輩が頷いた。

「わかったんだよ、この幽霊が誰なのか!
 三年前、あそこで倒れて病院に担ぎ込まれて、それ以来意識が戻らない女がいるそうだ。
 間違いねぇよ! お前を道連れに、あの世に逝こうとしてんだよ!」

 幽子が……生霊? 幽子はまだ生きている?
 ぐるぐると回る意識で、鳥羽は考えた。
 それなら尚更、幽子を悪霊にするわけにはいかない。

「おい! 鳥羽!」
 先輩の制止を振り切って、鳥羽は立ち上がり、壁伝いに歩き出した。

 ――逃がさないわよぉ。アハハハハハハ

 鳥羽の背中に、幽子が覆いかぶさった。
 重さと冷たさでよろめく鳥羽を、先輩が支える。

「そんな身体でどこに行くんだよ、鳥羽!?」
「蓮池病院です。幽子の魂を……身体があるところまで連れていかないと」

 身体があるから、幽子は蓮池病院を目指していたのだ。
 その大事な用が判明した以上、蓮池病院には幽子を阻む壁はないはずだった。

 幽子の心残り……それは、まだ生きている自分に戻ること。身体の生への未練が、魂をこの世に繋ぎとめているのだ。
 鳥羽は背中の幽霊に向かって、叫んだ。

「幽子、考えろ。退院したらやりたいこと、考えろ!」

 ――やりたい…こと?


 狂ったように続いていた嗤いが止んだ。

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